2020.08.11
<映画:グラン・トリノ #クリント・イーストウッド監督 #道具と修理 #グレート・アメリカ #老人と少年>
こんばんは。
火曜日担当のツノムラです。
酷暑なので、あっさりとサラダ風冷やし中華でも作ろうと買い物に出かけた。
「なんて日だっ‼︎ レタス一玉が500円だなんて‼︎」
八百屋で愕然とする。
長雨と日照不足、野菜高騰は誰のせいでもない。
生産者の皆さまには、感謝しています。
ああ、当面は穀物と肉中心で、酷暑を乗り切り、コロナ禍を匍匐前進。
よく食べ、よく眠る、愉快に過ごす。
免疫増し盛りで、お偉い方々が言う「特別な夏」を乗り越えてやろうじゃ、ござんせんか。
“「Stay」だとか「Go」だとか、こちとら警察犬じゃねえんだ。
指図されるのは「特に嫌いだね」”
いかん、いかん。口調がだんだんと映画のダーティ・ハリー(刑事ドラマ、1971年公開、クリント・イーストウッド主演、ドン・シーゲル監督)になってきた。
そうです。本日のブログは、「クリント・イーストウッド」です。
お付き合いください。
偏屈で人間嫌い。自分以外の人間は信じない。
上っ面だけの博愛主義を何より嫌い。
世間の偽善に対して口悪く罵る。
しかし、誰に対しても正直に平等に接する。
許されざる者にはマグナム44口径をぶっ放す。
こんな、クリント・イースウッドが演じるハリー・キャラハン刑事が、もしも、曽根崎警察署に勤務していたら、怖いけれど、遠巻きに見にいきたい。
本日の映画は、ハリー・キャラハン刑事のキャラを少しオマージュした、イーストウッド監督の第32作品目、2008年公開の最高傑作「グラン・トリノ」をご案内します。
舞台は2000年代後半のミシガン州、アメリカ最大の自動車産業都市のデトロイト。
主人公のウォルタ・コワルスキーは、フォード社で50年間務めた元自動車整備工。
最愛の妻に先立たれ、郊外の戸建てにラブラドール犬と独り暮らす。二人の息子とは折り合いがつかず、孫たちとも距離を置いている。
されとて、いわゆる寂しい独居老人ではない。
地元の退役軍人クラブでは飲み仲間とビールを嗜み、毎週に理髪店で髪を整え、芝刈りと家の手入れは怠らず、お洒落でハンサムで社交性もあり、地元のご婦人方からもモテると思う。
何より、1972年式のフォード、2ドア・スポーツカー「グラン・トリノ」を所有し、今でも自分で整備して街に繰り出すエンスー爺さんがカッコ良い。元軍人のちょいワルです。
物語の始まりのシーン。静かな郊外の暮らしが徐々に不穏になる。
日本車の台頭によりアメリカ車の力は衰え、フォードやG .Mの工場が街から無くなり、デトロイトは、失業と貧困、犯罪の悪化に苦しむ。かつての郊外の平和な街は荒れている。
白人のミドルクラス労働者たち、古き良きアメリカの住民は街を離れ、コミュニティーは空き家が増え、代わって中南米やアジアからの移民が住み始める。
コワルスキーの隣家にもベトナムからの政治難民(モン族)が移り住む。
彼らは英語を話さず、祖国のライフスタイルに固執し、コワルスキーの目からはアメリカに溶け込もうとしない異邦人に見えて苛立つ。
自分自身は、ポーランド移民の息子でありながら、従軍してアメリカに忠誠し、自動車産業に勤労し、グレート・アメリカを支えてきたのに。
他方、隣人たちから見た彼については、ベトナム戦争を勝手に仕掛けて祖国を分断し、彼らを国外に放り出した傲慢なアメリカ人のうちでしかない。
隣人同士、初めから交流など俎上にない。
誰が外人に興味があるものか、友達になんてなれない。なりたくもない。
ある事件が起きるまでは(ネタバレしません)。
ある事件をきっかけに、隣人家族の長男「タオ」は、地元のアジア系ギャングにつけ狙われる。
荒廃したデトロイトの街で気弱なタオは無力だ。
奴らのやり口は卑劣だ。奴らは銃を力に虚勢を張る。
警察や教会なんてあてにならない。誰も守ってくれない。
コワルスキーにとってアジア移民の隣人なんて無関心なはずであった。
むしろ、朝鮮戦争の帰還兵の彼は、アジア人を避けてきた。
しかし、次第にタオと隣人家族を守る決心をする。
実の息子たちよりも、より深く慈しみ、より強くタオを鍛える。
ひ弱な少年が一人前の男として独り立ちできるように。
何がきっかけで、タオの父親役を買って出たのか?
コワルスキーは、隣人家族を守ることができるのか?
どうか、ご覧ください。
本作はイーストウッド監督作品の中でも特に、その結末の是非について、多くの映画ファンがあれこれと語りたくなる物語です。
ですから、ある事件とその後の展開は、映画の核心ですので、紹介できません。
そこで、Kダブシャインさん(ヒップホップMC、元キングギドラのリーダー)の楽曲『Save The Children』的に劇中のセリフはこんな流れです(僕独自の意訳)。
“もし、美味い肉団子を作ったら、俺に言え、味見してやる ♫”
“もし、人の物を盗んだら、俺に言え、叩き直してやる 🎵”
“もし、冷蔵庫が壊れたら、俺に言え、25ドルで直してやる 🎵”
“もし、真のアメリカ野郎になりたかったら、
俺に言え、男のジョークを教えてやる ♩“
“もし、とびっきりの女に惚れたら、俺に言え、先手必勝だ”
“もし、女を殴る奴を見たら、俺に言え、容赦しない”
映画を見た方なら、気弱なタオを一人前の男に叩き上げて育てる過程っていいですよね。
特に道具に関するやりとりが好き
「どんな小さな道具にもそれぞれ役割がある。いざという時に役に立つ」
「ぼんくらには解らないだろうが、これだけの道具を揃えるには50年かかる」
「一度に揃えるなんて馬鹿なことなんだ」
「まずは、3つの道具の使い方から覚えろ」
「潤滑材スプレー、バイスクリップ、ダクトテープ。
この3つで大抵のことは修理できる」
道具は信頼、友達であり、揃えるには50年かかる。
人との摩擦だらけで、人間関係は故障だらけだけど、修理できると信じて生きてきた男の後ろ姿。老人が背中で少年に諭すシーンがたまらなく好き。
そして、神を信じない彼が十字架を切り、懺悔する。
神父を童貞の世間知らずと嘯きながら。
何に対する贖罪なのか。
ひよっ子の僕には、まだ半分しか理解できない。
1930年生まれ(ふたご座)のイーストウッド監督は、1950年代のローハイド、1960年代のマカロニ・ウエスタンシリーズ(セルジオ・レオーネ監督)の西部劇俳優からキャリアが始まり、70年代からは俳優兼監督として約40作品を取り続け、彼の歴史がアメリカ映画そのものです。
ですから、僕ごとき若造がイーストウッド映画を語ることは、とんでもないことを十分に承知しています。
でも、やっぱり彼の映画について、誰かと話したくなる。
本作の底流にある「正義」の感情が「暴力」と「非暴力」の振り子を揺らす。
その振り子運動は、現代アメリカの悩みをわかりやすく説き、徐々に頭がクリアに収束する(ごめん、賢ぶった、わかりにくい言い回し。カッコつけた。恥ずい)。
イーストウッドの好きなところは、特別なセレブやヒーローを描かないこと。
オーディナリー・ピープル、つまり市井の人々の視点からアメリカ社会の今を描き続けている。
オーディナリーな主人公たちは、日々を自分で考えて、決断する。
結果が悪い方向に転んでも自分でケリをつける。
そして、次の幸福を迎え入れる。
「禍福は糾える縄の如し」
劇中のコワルスキーは、ポーランド移民で東欧出身らしくビールを沢山飲む。
ビーフジャーキーをあてに、クーラーボックス一杯のビール(多分10缶以上)をポーチのベンチで昼から嗜む。
そこまで、飲めないけれど、今夜はポーランドビールを探しに出かけますか。
「Tyskie(ティスキエ)」とい銘柄が辛口で美味いらしい。
おやすみなさい。